見えないけど、あるとして。


解説)

ゴミのような文章を書く。

ある作品が生まれると、同時に、作品にならなかったものが生まれる。
『マルチ・ミニマル・テキスト』では、後者に目を向ける。
この試みによって、わたしが作品未満だとみなしたものが何だったのかを明らかにしたい。

*〜・*〜・〜*〜・*〜・*

_なんか引っかかる言葉
ある友達が、わたしにこんなことを言った。
「久しぶり!なんか、かわいくなったね!」
さて、なんと返事をするべきか。
1)かわいくなったのはどこなのか
2)なぜそのような発言がなされたのか
3)言いかたは「かわいくなった」のだから、いつも「かわいい」わけではない。つまり
「以前はかわいくなかったが、最近になってかわいくなった」と捉えてよいだろう。では、相手のかわいいゾーンにわたしが入ったからといって、それにどんな意味があるのだろう。
4)わたしがかわいいゾーンに入ったのか、相手のかわいいゾーンが変化したのか
5)かわいいというワードは、さまざまな場面で使用されるため、どんな捉えかたをして返事をすればよいのか
わからないことは多い。

とりあえず決めた通りに返事をする。
よく知らない人には「え〜!ありがとうございます!嬉しい!」

友達には「ありがとう!」
会う回数が少ない人に、それ以上のことは言えない。


_疑いのまなこ
最近読み始めた本の序盤から、不思議だと思った箇所を引用する。

さらに私は、他の人びともこの私の世界の中に存在していること、しかも他の対象のように別の諸対象のあいだに身体的に存在しているだけでなく、私の意識と本質的に同一の意識を付与されて存在していること、このことをも端的な所与としてみなしている。

(引用:アルフレッド・シュッツ . トーマス・ルックマン . 那須壽 , 生活世界の構造 , 筑摩書房 , 2015 , p.45)

まだ全然読み終わっていないため、超テキトーに説明する。
この本の序盤では、前提として、ふつうに暮らしていたら当たり前だと思えることを、いくつか定義している。そのうちの1つが、自分以外の人間も心を持っているということだ。
「え!なんでそれが当たり前のことだって信じられるんですか?!」と、もしシュッツが生きていたら聞いてみたい。わたしにとって、自分以外の人間に心があるということは、受け入れるまでに時間がかかる不思議なことだ。

漫画だったら、キャラクターの心の声は読むことができるのに、現実のわたしは、他人の心が何を思っているのかわからない。心が何かもまだよくわからない。
わたしが対人的なやりとりで読むのは、相手の言ったことや、
わたしの言葉や態度によって変わった相手の表情、会話のリズムがズレることで生まれた間とか、そういうものだけだ。

極端な例を挙げてみる。

<ある会話にて>
1)わたしが何かを言う

2)相手の表情が変化したり、相手が何かを言ったりする

3)わたしはその表情の変化を見たり相手の発言を聞いたりする

4)わたしは相手の表情の変化に沿った内容の発言をする

実際はもっと複雑なやりとりが行われているのだが、この4つを繰り返すことで、わたしは相手との会話に規則性を見つけようとしている。

このやりとりのどこに相手の心があるんだろう。

独我論」という認識論的な見かたを盲信したいわけではない。独我論は「自分だけが存在し自分以外のものは(自分の心の中にしか)存在しない」という主張だ。(引用:永井均 , <子ども>のための哲学 , 講談社 , 1996 ,  p.30)わたしは、わたし以外の人間をどのように理解すればよいのかわからないだけだ。

_信じなければ成立しない現実
現状わたしは、相手の表情の変化や発言を「心」だと仮定している。
これまでの経験上、それを心だと見なして行動しなければ、
問題が起こる。
ルフレッド・シュッツは、昼間は銀行家として働き、夜は自身の研究を進めていたらしい。もしかしたらシュッツは「こんなこと疑ってたら日常生活なんてやってられません!」と思っていたのかもしれない。

_空白のままで
初めに、引っかかったところに戻ろう。
「久しぶり!なんか、かわいくなったね!」
これは、わたしと相手の会話から一部分を抜き出したものだ。
わたし以外の人間が、わたしと同じように心を持っているなら、発言には気をつけなければならない。

この相手と今よりも会話をしたことがあれば「どういう意味?」とか「それって、つまり以前はかわいいと思ってなかったってこと?」と聞いてもよいだろう。しかし、この質問は相手が「あのとき、こう思ってたんだよ」と訂正する隙を失くしてしまう。それはわたしが困る。

これから先、今よりも仲良くなったわたしたちが、このときの会話を思い出として話すかもしれない。
そのとき相手が思い出すわたしが、相手にとってどうでもよいことで引っかかり、困惑しているわたしの姿なのは恥ずかしい。
わからないことがあっても、まだあまり知らない友達の発言は、そっとしておいたほうがよいだろう。